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1992年の秋に初めてロシアの地を踏んでからもう20年も経った。あれは、北方のアルハンゲリスクで開催されているアルハンゲリスク・ジャズ・デイズを鑑賞し、帰途にモスクワへ立ち寄るという10日の程のツアーだった。その地で活動しているジャズ・グループ・アルハンゲリスクが前年に行った日本ツアーがきっかけだった。彼らが演奏したのはフォークロアをとりいれたアヴァンギャルド・ジャズだった。私はものすごいインパクトを受けた。ツアーの合間に、ミュージシャンを引率していたジャンナ・ブラギンスカヤさんによるソ連現代ジャズ史の映像を交えての講演も刺激的だった。目からウロコが落ちた気分だった。翌年になり、招聘の労をとられた評論家の副島輝人先生から、またアルハンゲリスクを訪れるので一緒にどうかというお話をいただいた。ホワイノット! 今やロシア現代芸術、文学およびジャズの研究で輝かしい業績を次々と重ねておられる鈴木正美先生(現在新潟大学人文学部教授)も来られたので、道中いろいろロシア事情も交えてロシアジャズについて教えていただくことができた。アルハンゲリスク・ジャズ・デイズの演奏については副島先生も鈴木先生も誌紙、ご著書で記されているのでご参照いただきたい。 フェスティヴァル終演後、ジャズ・グループ・アルハンゲリスクのリーダーのウラジーミル・レジツキー氏は、参加したミュージシャンやジャーナリストを、白海に浮かぶソロヴェツキー(ソロフキー)諸島へ船で引率し、ソロフキー修道院を詣で、島の自然を巡る遠足を楽しむのが恒例となっていた。アルハンゲリスク港からソロフキーの島まで片道16時間以上かかったような覚えがある。一泊は船の中で、もう一泊は港に付けた船中だった。ミュージシャンのジャム・セッションを楽しみ、ロシアのジャズ関係者と交流できた。まとまったソ連ジャズの歴史を当事者から知りたくて、鈴木先生に助けられてニコライ・ドミートリエフ氏とアレクセイ・バターシェフ氏からお話をうかがった。ドミートリエフ氏は1955年生まれ、地下出版、アンダーグラウンド・コンサートのオーガナイズを通じ、アヴァンギャルド・ジャズをバックアップしてきた人物、方やバターシェフ氏は1934年生まれで、50年代からジャズ推進に尽くした大物ジャーナリスト/オーガナイザーでありソ連初のソ連ジャズ史書『ソヴィエト・ジャズ〜ア・ヒストリカル・スケッチ』(1972)を著した。両氏の談話は帰国後、当時編集責任者を務めていた「季刊 ジャズ批評78号」に掲載した。親子程の年の差があり、贔屓にする音楽、ミュージシャンのタイプも大きく異なる2人から談話を得られたので、偏らない報道ができたことになるだろうか。ドミートリエフ氏の談話は現在、インターネットサイトのmusicircusでご覧いただくことができる。 (http://homepage3.nifty.com/musicircus/odessa/020.htm ) ここにはバターシェフ氏の談話から抜粋して再録したい。(トヨツキー) アレクセイ・バターシェフ氏の談話 1992年10月 ソロフキー港にて アルハンゲリスク・ジャズ・デイズ讃 何をおいても「アルハンゲリスク・ジャズ・デイズ」に来るように努めてきました。それほど好きなジャズ祭です。このジャズ祭の企画・主催者でありグループ・アルハンゲリスクのリーダーであるウラジーミル・レジツキーという特筆すべき人物、そのすばらしい仲間達、そして理解ある観客が醸し出す雰囲気がまず嬉しい。もちろん、このジャズ祭の企画内容も気に入っています。きわめてユニヴァーサルです。歴史、バックグラウンドを異にする様々なジャズ、トラッドから最前衛までが同じステージに立つ。ロシアだけじゃない、ヨーロッパ各国、アメリカ合衆国、アジアからも出演している。まさしくグローバルな出来事じゃないですか。少年少女のためのマチネーを設けているのも特筆すべきことだと思います。見ていると私も子どもになったような気持ちになって、私も跳ね回って遊んでしまうね。子供と大人の境目なんてものはもともとないんだね。人は移ろいの中で生きるものだ。ひとつ所にとどまるのは、つまり変化なき生は死も同前。人生とは変遷であると賢者が言っているとおり、生きるとは移ろい行くことである、と。そういうことがこのジャズ・デイズでは表現されていると私は思っています。ジャズという芸術は瞬間、瞬間の深みを感じさせてくれる音楽である。その瞬間と溶け合うこと。ある瞬間に瞬間に人生の深淵を感じさせてくれるもの。アルハンゲシスク・ジャズ・デイズはそういう体験へと誘ってくれます。 ソロフキーへの旅行は、ある種の聖域とでもいうべきものに接するような得難い体験であって、我々ロシア人にとっては極めて重要なものです。 ミュージシャンか物理学者か 私が最初にジャズを聴いたのは1938年でした。生れは1934年で、監獄の中だったから、4歳までは太陽も空も草木も動物も見たことがなく、聴いた音といえば、親のささやき声か、誰かの叫び声くらいのもので、自由の身になって初めて音楽を聴いた。それがジャズだったわけです。デューク・エリントン、ミルス・ブラザーズ、カサロマ・オーケストラ、ベニー・グッドマン、ルイ・アームストロング、それからヨーロッパやソヴィエトのバンドも聴きなじんだ。私の年の離れた兄が名の知られたスポーツ写真家で、日本へも何回か行っていますよ。オリンピックのときも行った。そして世界中を回っていて、ジャズ・レコードのコレクションもかなりのものだったので、兄の影響もあってジャズは私の音楽になりました。 実は私は1950年代にはジャズ・ミュージシャンになろうと思っていたのですよ。音楽学校の類に行ったことはありませんが、曲を書き、アレンジし、譜面を読むといったことは本を読んだりして独学で修得し、クラリネットとテナー・サックスを吹きました。大学で物理を専攻し、博士号をとって、物理学者として働くようになりました。大学時代には厳しい勉強を余儀なくされたし、その後も、一室に私と妻と娘と母と祖母の5人で暮すというありさまでしたから、たいした練習ができるはずがなく、自分の演奏には満足がいかなかったわけです。 恩師のレフ・ランダウ博士(ノーベル賞理論物理学賞を受賞した物理学者)がこんなことを言いましたね、「私は君たちに物理学とは何ぞということを教えたいのではない。思考し分析するということを教えたい。それが身につけば物理学なんぞは難解なものではない」。その影響が、私のジャズとの関わり方に及んでいると思っています。 アナリストとして、教育者として そういう次第で、演奏の方は止めて、ジャズについて書いたり、オーガナイズすることを選んだ後、57年には「The World Youth Festival in Moscow」に関わり、以来さまざまな形でジャズと付き合い、欧米のジャズ関係者とのつながりも得た。60年以来、モスクワ・ジャズクラブ(愛好者の会)の代表も務め、レニングラード・ジャズクラブの創設にも携わった。モスクワで初めてのジャズ祭を仕掛けたり、同様にエストニアをはじめとしてソ連各地でジャズ祭を打つという具合に積極的に動いたから、当然KGBや共産党やコムソモルは私を危険人物視した。しかし、そんなことに怖じ気づくわけにはいきませんよ。連中は何ら私に対し実力行使に出ることはなく、単に無視を決め込んだにすぎませんでした。私は何ら国の機関や芸術関係の団体に属さないで、個人として活動していました。他にそうできた者はいなかったと思います。私個人として欧米に名前が知られていたので手を出せなかったのです。 第一に私は物理学者でした。ジャズに関わる一切のことは、私の自由時間を使ってする。今でもそうで、ジャズ祭に参加するにしても費用も自分の面倒は自分で見ています。77年にはドイツのヨアヒム・ベーレント氏他三氏ともどもポーランド政府からジャズの普及に寄与した功で勲章をもらったのですが、私と他の三氏との違いはそこにありました。ポーランドの件は、国際ジャズ連合の創設に参加し、その雑誌である「ジャズ・ポディウム」に寄稿するということからきた話でした。これに限らず、今では私はニューオリンズ・ジャズ・カルカイック、ベルリン・ジャズ・ターゲをはじめ欧米のジャズ団体のメンバーに名を列ねています。 ジャズに対する私のスタンスは、第一にアナリストだと自分では思っています。批評家(クリティーク)という面ではあまり書いていなくて、それも非常に専門的なものだけですね。選り好みしたということもあります。 私はまた、プロモーター、オーガナイザーであり、教育者でもあるということになると思います。ジャズ教育にも長いこと携わってきました。担当科目としてはジャズ史や、さらに文科的な、たとえばジャズ演奏史、ジャズ・スタイル史、世界の即興音楽史といった科目も手がけてきました。即興音楽ないし即興芸術の分野における総合セミナーを企画運営し、そこではジャズはもちろん現代音楽や世界中の民族音楽も扱いました。 自慢といえば、100作以上のソヴィエト・ジャズのレコードをプロデュースしたこともその1つです。レコードのバック・カヴァーの文章(ライナーノーツのこと)の執筆も私にとっては、ジャズ・ライターとして比重に重要な仕事だったと思っています、カヴァーに載っている文章は、盤に刻まれている音楽の、いわば序文のようなものですが、私はその文章スタイルの先鞭を付けたことになるのでしょうね。カヴァー上の文章を書くに際しても、音楽と聴き手をつなぐ橋のような役割を担うように努め、音楽そのものに即して書いてきました。 メロディヤ社のジャズ・レコードのカタログを見てもらえばわかると思いますが、ジャズ作品は約400タイトル出ていて、その中には、フォービート、メインストリーム、フォーク、エスニック、ジャズロック、フリージャズ、アヴァンギャルド他というように様々なタイプのジャズ演奏が含まれています。英国のレオ・レコードのカタログは、レイ・フェイギン氏という人物がイメージしているソヴィエト・ジャズのショウケースと考えるべきでしょう。 ここ数年来、ロシアではいわゆるニュー・スタイルの音楽が注目を集めてきました。音楽そのもの以上に、演劇的な面白味、衣装や身ぶりといった視覚的要素が人気をあおったといえると思われますが、現時点ではっきりしてきたことは、音楽が音楽として存在しているということです。新聞でもテレビでもしばしば報道されているのご存じのように、ロシアはい今、自由化が進み、私からすれば、最も自由な国の1つになったのではないかというほどです。自由化の初期などは、不幸にもモラルを欠いた人々や無教養で無遠慮な人に「自由」はさんざんこき使われてしまいました。とはいえ、ともかくロシアは自由化の時代になりました。音楽もここで初めて、好もうが好むまいが勝手という段階にきました。そこではまた、音楽が人々の間のコミュニケーションの一方法としても存在できるのです。 ウラジオストック・ジャズ祭のヴィジョン 私は近年も様々なジャズ祭を企画し監督しててきましたが、直近では、今年(1992年)第2回のウラジオストック・ジャズ祭を無事終えたところです。昨年の第1回開催は、ロシア国内のミュージシャンだけの出演でしたが、今年は光栄にも日本から井上敬三さんという素晴らしいプレイヤーにきてもらうことができました。93年からはさらにインターナショナル化を目指したいと思っています。私はウラジオストックを環太平洋文化圏の拠点にできないかと構想を練っているのです。ロシアはヨーロッパでもありアジアでもありますし、アメリカ大陸とベーリング海峡越の隣人でもあります。隣まで飛行機で1時間もかかりませんね。ロシア、アメリカ、日本、中国、さらにアジア諸国。中南米諸国が相互提供することによって、新しい局面が世界に開かれてくるものと私は確信しています。 私はアラスカで夏に開催されてきたフェアバンク・アート・フェスティヴァルに親密に関わってきて、大学での講座を受け持ったり、シベリアの人材をアラスカへ連れていったり、その逆にアラスカの人材をシベリアをはじめ諸都市へ紹介するというように、ジャズを通じて構想実現の足掛かりを作ってきたつもりです。ジャズを突破口にして、大平洋沿岸の国々が文化的に国際交流が活発化し、経済的にも協力しあえるようになっていけたらと願っています。ウラジオストックの人々は今、外国に門戸を開いていて、非常に意欲的ですから私もできる限り協力したいと思っています。 ジャズは、まさしく国際的な音楽だと思います。アフリカン・プラス・アメリカンのコンビネーションを発端として、今や様々な国、人種の人々によって創造されているすばらしい音楽です。ちなみに、そんなジャズを指して、マルチエスニックな音楽、と早くに的確に捉えたのはロシアのヴァレンティン・パルナフ(1922年にジャズ演奏を手がけたロシアにおけるジャズの開祖的人物)です。 ロシアの優れたミュージシャンたち 確かに近年、大勢のロシアのミュージシャンがアメリカ合衆国、ヨーロッパ、イスラエルなどへ移住していますが、そう悲観するには及ばないと私は思っていますよ。彼らの多くは行った先で難無く活躍しているからです。それはつまり彼らが才能を認められたからなのですから。 ロシアには今も優れたメインストリーム系のジャズ・ミュージシャンは珍しくありません。私なりの基準にかなう人を挙げてみましょうか。 イーゴリ・ブリーリ(p)、アレクセイ・クズネツォフ(g)、スタニスラフ・グリゴリエフ、ヴャチェスラフ・レブリジェンスキー、ニコライ・パノフ(t-sax)、ゲオルギー・ガラニャーン(a-sax)、ダヴィッド・ゴロショーキン(t-sax, tp, vl)、アレクサンドル・フィッシャー(tp)、ダニエル・クラマー(p)、アレクサンドル・ロストツキー(b)、ヴィクトール・ドヴォシュキン(b)、さらにオレグ・ルンドストレーム・オーケストラの面々など、みんなワールドクラスのすばらしいミュージシャンたちです。まだ世界的に露出していない人が多いですが、論じるに足る音楽を聴かせてくれますよ。 (以上 1992年談話)
by jazzbratblog
| 2012-09-08 20:10
| ソ連ジャズ史関連
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