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ユーゴ行き、乗り換え。 運転手はキミとボクだ 中欧や東欧のジャズを愛する人たちを道連れにしてツアーしたことがある。「夜霧のジャズ・トレイン」という名のジャズ鑑賞ツアーだった。まずプラハへ寄って病床にあったカレル・ヴェレブニーを見舞い、新年の挨拶を交わしてからブダペシュトを訪ね、サチ・ラーカトシュたちを聴き、さあ次はユーゴスラヴィア入りというところで、余りにも深い霧の中に迷い、立ち往生を余儀なくされ、ツアーは終わった。心残りでならなかったので、もういちどユーゴ入りを試してみることにした。同伴をご希望の方は、2月19日(日曜)出発時間の17:00までにぜひ到着していただきたい。発車場所は、吉祥寺サウンドカフェ・ズミである(場所・料金の詳細はこの文末にて)。 時は過ぎ、今では「ユーゴスラヴィア」という名の国はない。かつてこの社会主義連邦共和国を形成していた国々には、それぞれ立派な国際ジャズ祭が営まれている。世界的な演奏水準にあると評される地元のジャズ・ミュージシャンたちが何人もいる。むかしも、ベオグラード放送オーケストラ出身者で脱国したドゥシュコ・ゴイコヴィッチ(Dusko Gojkovic, tp)やボラ・ロコヴィッチ(Bora Rokovic, p)は世界的に認められた。しかし、国内に踏ん張っている面々の様子はあまり伝わってこなかった。ザグレブ放送オーケストラ組でザグレブ・ジャズ・カルテット(Zagreb Jazz Quartet)を組んでいたボシュコ・ペトロヴィッチ(Bosko Petrovic, vib)たちは例外と言えるだろう。 この四半世紀の間、ユーゴスラヴィアのジャズはどうだったのか? まとまった通史のようなものは作られたのだろうか? 自分の路線図も未完成のままだが、しかし今度は立ち往生することはないだろう。心強い仲間がいる。これまで「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズ・ツアー」シリーズの同行者の皆さんである。そう、ユーゴ・ジャズ行きの運転手はキミとボクだ! 船から列車に乗り換えて、出発! 以下に添乗員Toyotsky のプランと、若干の歴史的な資料を掲げる。ユーゴ解体後の各国のジャズ動向については、YouTube等でチェックできるようになってきている。そこで今回は、主にユーゴ時代のベオグラード(セルビア)、ザグレブ(クロアチア)、リュブリアナ(スロヴェニア)、スコピエ(マケドニア)、サラエヴォ(ボスニア)等に分け入りたいと思い準備している。皆さんのお薦めの立ち寄り先・資料があればぜひご携帯のうえ参加戴きたいと願っている。 【主な訪問予定先・ミュージシャン】 ■セルビア関連 ベオグラード放送ジャズ・オーケストラ ドゥシュコ・ゴイコヴィッチ(trumpet) ボラ・ロコヴィッチ(piano) グート(trumpet)=マルコヴィチ(sax)・セクステット ララ・コヴァチェフ(drums) ジョヴァン・マリョコヴィッチ(sax)・セクステット ウラジミル・マリチッチ(piano) ボリス・コヴァッチ(sax) ミロスラフ・タディッチ(guitar) ボヤン・ズルフィカルパシッチ(piano) ■マケドニア関係 ヴラトコ・ステファノフスキー(guitar; Leb I Sol) イリヤ・ペヨスキー(piano)+マケドニア放送ビッグバンド フェルース・ムスタフォフ(sax) トニー・キタノフスキー(guitar)トリオ ■クロアチア関係 ザグレブ放送ビッグバンド(ミリェンコ・プロハスカ指揮) ザグレブ・ジャズ・カルテット(ボシュコ・ペトロヴィッチvib) B. P. コンヴェンション マティナ・デディッチ(piano)・トリオ ■スロヴェニア関係 リュブリアナ放送ビッグバンド トーネ・ヤンシャ(sax) ■ボスニア関係 ヴラトコ・クチャン(sax) ■コソヴォ関係 イリーナ・カラマルコヴィッチ(vocal)・バンド (以上、2月4日現在。変更の可能性があります) (写真:上からDusko Gojkovic、Bojan Zulfikarpasic、Vlatko Stefanovsky) 【旅のしおり:参考資料】 旧ユーゴスラヴィアのジャズ史断章 1927年にセルビアの首都ベオグラードで初めてジャズバンドがいくつか結成されたが、ただし実体はフォックストロット、タンゴ、ワルツなどのダンス音楽を主とする楽団といったところであった。Micky Jazzはそうした楽団の中で名の通っていた1つである。ベオグラード以外にも、Merchants Youth Jazz OrchestraやCraftmans Youth Jazz Orchestraが生まれ、録音もいくらか残っているとのことである。その後、ナチス・ドイツによりユーゴが占領されていた時期、ベオグラード放送の音楽主任となったオトマール・ホーファー(Othmar Hofer)は、“力と喜び”をモットーに大衆に音楽を提供したが、自由思想は禁じられていた。1943年にフリードリヒ・マイヤー(Friedrich Mayer)がベオグラード放送音楽主任となった。反ナチで,アメリカのジャズを愛したマイヤーの就任により、最初の本格的ジャズ・オーケストラが創始され、マイヤーの尽力によりラジオのためのジャズ・オーケストラが誕生した。 第2次世界大戦後、共産党が権力を奪取し,多くの音楽家はドイツとの協力者として逮捕されたが、ジャズ・オーケストラの中核は温存された。ジャズは公式には禁止されたものの、その後も絶えず発展を続けたという。 1950年、ベオグラード音楽アカデミーのボリスラフ・ズィノジノヴィッチ(Borislav Zivojinovic)教授の指導のもとにトランペット部が創始された。ここから幾人かの若い才能の出現を見ることになった。ミーレ・パヴロヴィッチ(Mile Pavlovic)、プレドラグ・“シンパ”・イヴァノヴィッチ(Predrag Simpa Ivanovic)、ドゥシュコ・ゴイコヴィッチ(Dusko Gojkovic)などである。1953年ソ連でスターリンが死去した年、音楽家たちは、ユーゴスラヴィアにおけるジャズ普及を目的として「Jazz Musicians Association」(JMA)を結成した。ジャズ普及のために国際的音楽家を招待し、コンサートを開催したりワークショップを設けたりしていく。第2次世界大戦後はじめてベオグラードで国際的イベントが催された際、ドイツからユタ・ヒップ(Jutta Hippピアノ)、ヨキ・フロイト(Joki Freundサックス)他が招かれている。後に1955年ゴイコヴィッチがユーゴを脱出してドイツへ向かうことができたのは、ヒップのグループのメンバーだった人物が送ってくれた招待状のおかげで一時的な旅行ヴィザを取得できたからであった。 ユーゴ国内の音楽家たちは定期的にジャムセッションを開催したし、JMAの尽力により、ベオグラードには米国から多くのジャズマンが訪れて演奏した。ディジー・ガレスピー(1956)、ドン・バイアス、トニー・スコット(1957)、ルイ・アームストロング(1959)、オスカー・ピーターソン、エロール・ガーナー、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)、クインシー・ジョーンズ(1960)、エラ・フィッツジェラルド(1961)、サラ・ヴォーン(1969)、メイナード・ファーガソン、デューク・エリントン(1970)、マイルス・デイヴィス(1971)、カウント・ベイシー(1972)…などがその一例である。 1959年、やはりJMAの発案によリベオグラードで初の「ジャズクラブ(Jazzklub)」がオープンした。このクラブはわずか3年でクローズしたが,すでにシグナルは響きわたっていて,短期間の後に多数のクラブが誕生していた。ベオグラードの「ジャズクラブ」での特別の出来事はウィリス・カノヴァー(Willis Conover)、つまりかのVoice of AmericaのDJでの来訪である。自由への希望をユーゴースラヴィアにもたらしたのはこのカノヴァーだった、というのは当時ジャズの洗礼を受けた世代の弁である。 JMAの情熱は他にも多くの功績を残している。JMAによって1956年にベオグラードにジャズ学校が設立されたことも書き落とせない。厳しい資金難のため学校はわずか半年後で閉鎖されたが、その後、ジャズ・アカデミー構想を実現した。それにより、ジャズ音楽家は“芸術家”の地位を与えられ,安定した社会生活を獲得し,年金給付の要求も可能になった。 ユーゴスラヴィア・ジャズ ・フェスティヴァルがBled(現在スロヴェニア領)で開催されたのもJMAの功績に数えられる。毎年開催のこのジャズ祭はユーゴースラヴィアのジャズ・ミュージシャンにとってきわめて重要なイヴェントとなった。 同じようにして1970年にはベオグラード国際ジャズ・フェスティヴァルが第1回の開催の日を迎えた(かつてNewport Jazz Festival in Belgradeとして開催されたことがある)。その後同祭の主催者はしばしば代わったが、今でも存続している。このFestival以外にセルビアにはさらに6つのFestivalがあるが(Sabac, Nis, Novi Sad, Kanjiza, Valievo, Pancevo)、財政状態が芳しくないこともあり、国際的な知名度があるとはまだ言えない状況にある。 現在、セルビア=モンテネグロのジャズ界は活発化し,多数のプロ音楽家、演奏グループが誕生している。その音楽の最大の特徴を挙げれば、“folklorism”と即興音楽との混合に向かう意欲である。そうした音楽によって国際的に成功した最初のミュージシャンは、1966年に『Swinging Macedonia』というアルバムを発表したドゥシュコ・ゴイコヴィッチである。今日のセルビアとモンテネグロの音楽家たちは,各自のコンセプトに立脚しつつ,隣国の音楽家とともに「バルカン・ジャズ」をクリエイトすることによって国際的関心を喚起している。 <資料として示した上記文章は、セルビアとモンテネグロがユーゴスラヴィアの縮小的な後継というべき連邦であった時期の2004年秋にオーストリアのウィーンにあるジャズクラブ「Porgy & Bess」で開催されたコンサート週間「Serbia –Montenegro; step across the border」のために作成されたパンフレットから抜粋し、当ブログ管理者Toyotskyが再構成したものである。原文は、セルビアのジャズ・ピアニストであるウラジミル・マリチッチ(Vladimir Maricic)へのインタヴュー取材をもとに作成されたとのことである。その後、2006年6月にモンテネグロが独立した。> ツアー名:宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー 第11回 ユーゴスラヴィアに分け入る 催行日時:2012年2月19日(日)17:00〜 料 金:500円+メニュー料金(ミラクル・ロープライス・ドリーム・ツアー!) 主 催:サウンド・カフェ・ズミ(イズミール) 添乗員兼お酌:岡島トヨツキー(「ジャズ・ブラート」主宰)& 片岡フミアキン 集合場所:吉祥寺Sound Cafe dzumiサウンド・カフェ・ズミ 〒180-0005 武蔵野市御殿山1−2−3 キヨノビル7F Tel 0422-72-7822
by jazzbratblog
| 2012-02-04 18:02
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