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12月上旬に来日予定(日程詳細→◆)のモスクワの前衛音楽家セルゲイ・レートフ(Sergey Letov b.1956)氏による、興味深い文章をすでに2題このブログに掲載した(▼1、▼2)。ぜひともレートフ氏には分厚い自伝を書いていただきたいものだと、私は改めて読んでみて熱望している。今度お会いしたらガンガン頼んでみようと思う。ソ連時代の音楽文化を語るうえで極めて重要な場面でセルゲイ・レートフ氏は当事者となっていた様子であるから。 レートフが懇意に付き合った音楽家の中でも、とびきりの異彩を放っているのが、セルゲイ・クリョーヒン氏(Sergey Kuryokhin 1954-97)である。クリョーヒン氏はあまりにも早く亡くなり惜しまれた。クリョーヒンのような活動をできた音楽家は空前絶後であろう。レートフ氏はそんなクリョーヒン氏とかなり親密だったので、クリョーヒン死後、思い出を綴った文章を頼み、当時私が紙媒体で発行していた「Jazz Brat」第5号(2003年)に掲載したことがある。ここにその全文を紹介する。 今回の来日でセルゲイ・レートフ氏は、12月3日の新潟における公開研究会「ソ連非公式芸術とジャズ文化」(新潟大学・新潟駅前南キャンパスときめいと)の他に、12月8日に埼玉大学で類似の講演が行われる。また、12月9日には早稲田大学において講演「ロシア現代美術のアクションとパフォーマンス <集団行為とモスクワ・コンセプチュアリズム>」が行われる。さらに、12月10日(土曜日)アップリンク(渋谷)における「ロシア・ジャズ再考」、12月11日(日曜)カフェズミ(吉祥寺)における「ポスト・クリョーヒン・スタディーズ特別編」でもセルゲイ・レートフ氏は語ることになっている。そうした一連のトークのバックグラウンド情報として、既出の2題ともども参考になるのではないかと思う。 ▼下掲写真:ピアノを弾くのはセルゲイ・クリョーヒン氏、その向こうに立つ人物がセルゲイ・レートフ氏(©Sergey Letov) セルゲイ・クリョーヒンについての覚え書き セルゲイ・レートフ著 Commemorable notes about Sergey Kryokhin by Sergey Letov ぼくたちは予期しない中で生き、死んでいく。移ろいの中にある。万事不安定であいまいだ。昨日まで馴染んでいたものが突如、理解を超えて隔たっていく。まあ、そんなところだから、批評家というものはミュージシャンたちの営みに理解が及ばず、出来事を記録するだけで、わからないことには言及しない正直者ってわけなのだろう。たとえば、多々あるクリョーヒン関連記事の1つを要約すると、「このポップ・メカニクスのコンサートでは結果的に463人と羊1頭が参加した」なんてことだけになってしまう。クリョヒーンの突飛な行いが意味したものは何なのか? 彼のステージではサンクトペテルブルクのロック・ミュージシャンと、シュトコロフとかコラ・ベドリーのような公認アーティストの筆頭格が揃って出演しても不都合がなかったのはなぜだったのか? ぼくの場合、クリョーヒンについてものを書くときには、モスクワの地下鉄でのあの体験を思い出してしまう。決まってだ。深夜の車中、ぼくは向いに座っている若者たちを見つめていた。彼らは、永遠とか無限とかといった、きわめて古風なことを話題にしていた。彼らの1人がぼくに丁寧な口調でたずねた。「失礼ですが、アレクセイ・レートフさんですか?」 ぼくは自分の名前を告げた。彼らは詫びを言い、もう1つたずねていいかと言った。「クリョーヒンはファシストでしたか?」 ぼくは答えた。「ポップ・メカニクスはレニングラードの選挙キャンペーンでナショナル・ボリシェビキ党の候補者のための支援演奏をしたね」他にも質問されたけれど、何だったか思い出せない。 セルゲイはわが国の批評家、ジャーナリスト、音楽研究者から極端に疎まれていた。セルゲイは諸々の分野に精通していて、中でも現代音楽、哲学、人文科学に長けていた。不思議かもしれないけれど、この大衆的人気の著しかったミュージシャンはグスタフ・シュペット(ロシアの哲学者・現象学者)を読み、英国の言語哲学を読んでもいた。ポピュラー・メカニクス(この名前はファースマンの大衆科学書のパロディとしてエフィム・セメノヴィッチ・バルバンが命名したものだ)の創成期、いやそれに先立つクレイジー・ミュージック・オーケストラ時代から、セルゲイはフランス構造主義に関心を強めていた。ポピュラー・メカニクスの特異性を理解する鍵はここにある。つまり、ポピュラー・メカニクスは、音楽表現だけでなかったのだ。ライフスタイルのようなもので括れるものでもなかった。換言すれば、レニングラード・ロックやシベリアン・ポスト・パンクやモスクワ・アンダーグラウンドといったようなものとは違ったということだ。 では何だったのか。参加者たちのための祝祭だったのだ。あらゆるレベルで大袈裟で、無礼講で、ソヴィエト式を顧みず、即興によって、熱狂的に行われる祝祭であり、かなりくだけたものだった。1980年代の末まで、ポップ・メカニスのミュージシャンは全員ギャラなしで演奏したのだった。 最近ぼくはトム・ウルフの著書「The Electro-cooling Acidic Test」と出くわした。この翻訳はセルゲイ・クリョーヒンとセルゲイ・フレノフの思い出に捧げられている。後者は、1980年代初期にペテルブルクにおいて、アレキサンドル・カンと同様、新しい即興音楽をオーガナイズした主要人物の1人だ。そう、クリョーヒンの行為は、ケン・カーシー(Ken Kesey)のプラクティカルなジョークと形式上は似ている。最初ぼくはウルフの本とケン・カーシーのジョークがセルゲイ・クリョーヒンの行動に影響を及ぼしたかどうか考えた。たぶんそれはないだろう。クリョーヒンはあまり英語が得意ではなかったから、似ているといってもそれは単純に形式上のことだ。クリョーヒンの活動はゲームに満ちていて、そこに争いはなく、疑似宗教的なペーソスのようなものもまったくなかった。ただ、一度だけ類似性を感じた覚えがある。ジャンキーの生態を描いたサーヴァ・クリシュ監督の映画『ロック・スタイルの悲劇』のサウンドトラックのために、デュオで(クリョーヒンはプロフェット2000シンセサイザーを、ぼくはバスクラリネット)演奏していたときだった。カメラがジャンキー達を表面上、非難しているの対照的に、クリョーヒンは、堕落と破滅にもかかわらず勝ち誇ったジャンキーの感覚を見事に創りあげてしまったのだ。しかし、その音楽と映像の取り合わせを監督は歓迎されなかった。最初に録った出来の良いテイクの後、何回か録音することになり、最終的には、監督に追従して演奏した月並みなものが使われることになった。しかし、そこにおいてもクリョーヒンの音楽は、たとえばウラジーミル・チェカシンのすべての音楽に共通するような価値のインフレ状態へ転じることはなかった。チェカシンは常にクリョーヒンに追い付き追い越そうとしてクリョーヒンのオーケストラを模倣した。しかし成功しなかった。ぼくは当時両人のプロジェクトに参加したことがあるから言えるのだが、両人のバンドは別物だ。クリョーヒンのオーケストラ「ポップ・メカニクス」は個人個人の集合であって、ソリストは誰もかもが自分自身の演奏をしていたとぼくは思っている。ロシアの作曲家の中で屈指の1人であるソフィア・グバイドゥーリナがかつてぼくにこんなふうなことを語った。「ストラヴィンスキーは自分の音楽を書き、音を操作していたが、シニトケはスタイルだけで操作した」クリョーヒンは個々のミュージシャンの即興の能力や段階や主要な振舞いにおける特色といったものを用いながら、生身の人間の集合体としての「ポップ・メカニクス」を作った。そこからミュージシャン相互による前例のない自己発現の祝祭が生まれたのだった。しかしチェカシンのバンドでは、ソリストはただ1人、チェカシンだけ。他のミュージシャンたちは、個々のレヴェルに関わりなく機械的に音楽的な役割をあてがわれた。役をこなせたら上々、こなせなくてもひどいことにはならない、といったものだった。たとえ、チェカシンの名人芸的サックス演奏(まったくオールドファッションな方法、とぼくなら付け加えなければならないけれど)によるニヒリズム表現がどれだけ輝かしいものであっても、だ。それからすると、ポップ・メカニクスにおけるクリョーヒンの楽器演奏上の役割は微々たるもので、最高潮に達しているときでも自分はソロをとらなかった。飛び跳ねたりあたりをふわふわうろつきながら指揮したり指示を出したりするだけでキーボードを弾かない、なんてことは稀ではなかった。 ポップ・メカニクスはカーニヴァル精神に立脚していた。これは確かだ。対立項を転回するのではなく、対立項を多次元的な非ユークリッド幾何学空間へ転位させたのだった。 ソヴィエト警察の日に捧げた大規模なコンサートでは、KGB歌謡・舞踊アンサンブルとともにアリャビエフの「ナイチンゲールの歌」が演じられ、チュコト半島出身のコラ・ベルディがロックバンド「キノー」の伴奏で「われ汝をツンドラへ連行せん」と歌い、先導ラッパ隊が気泡プラスチックの巨大なミロのヴィーナス象に表敬演奏し、ティムール・ノヴィコフとアフリカが「ロシアの古典娯楽:恐竜と蛇の戦い」を演じる。次第にカオス状態が増長されていく。すると、会場となったスタジアムは、管楽器トリオによるフリージャズを聴いて一息つく(こんなケースは世界で前例がないと思う)のだったが、こんどは、全てが、つまり海軍軍楽隊、チェンバー・オーケストラ、バラライカ楽団がサンクトペテルブルクのロック・モンスター連中数10人が奏でるエレキ・ギターとともに、とてつもない大岩礁のようなユニゾンがなり響く中、ガルクシャ(ロックバンド「AuktsYon」)が踊り、ロバやポニーの群れが駆け回り、マーモセットがサーカスよろしく自転車曲芸をするのだ。しかしこれで打ち止めではないぜ。バリトンサックスの咆哮や金切り音が大岩礁のごとき音を凌ぎ、被い包むのだった。 大編成ポップ・メカニクスのハイライトは、1989年春レニングラードにおけるコンサートだった。このバンドは海外公演も行なったが、ヨーロッパの聴衆はポップ・メカニクスを楽しい見せ物とみなさないことは明らかだった。たとえばドイツでメールス・ジャズ・フェスティヴァルに出演した時、 緑の党が「ヤギを保護する」ため押し寄せてきた。敬意をもって動物が扱われていないといぶかってそうしたのだった。オーストリアでは、地元のフォークロア楽団の処遇は敬意を欠くものであって侮辱的されたという見解だった。「西」側世界には理解できなかったのだ。現実の諸位相の置換ということが分からなかったのだ。「西」は、刮目すべきポップ・メカニクスにがっかりしたのだ。ソヴィエト流の素人くさいステージ.......モスクワのアンダーグラウンド・パンク・バンドのDKみたいなものと言うかな.......そんな演じ方ですべてを通したせいでもある。セルゲイはリハーサルに3時間以上費やすなんてことはなく、本番直前にさささっとやるだけだったから。 セルゲイは常に、自分のプロデュースするものよりも高みに立っていた。彼なりに非常にプライドの高い人間だった。彼はいわゆる「ソヴィエト・ジャズ」に対して極めてアイロニックだった。彼は80年代半ば以来、レニングラードの外で行われる「ソヴィエト・ジャズ・フェスティヴァル」に参加するのを止めた。レニングラードで出演するにしてもポップ・メカニクスとしてだけだった。スザンヌ・ターナーの企画による1989年チューリヒにおける「ソヴィエト・ジャズ・アヴァンギャルド」への参加依頼を蹴ったのはその顕著な表れだった。ぼくの覚えでは、エストニアでの2回、つまりパルヌ '87とタリン '88だけが例外で、どちらも学生のジャズ・フェスティヴァルだった。 セルゲイはファッションに対して鋭敏だった。身なり、考え方どちらに対してもだ。彼の観点によれば、自分は時代の精神や風潮を最大限に表現しているのだ、ということになる。長年にわたり、この種の「愛」は、ボリス・グレベンシチコフ(アクワリウムのリーダー/著名なロック歌手)や、ブルチェフスキイ(サックス奏者だったが、後にオレンジの露店商)、アフリカ、ユーリ・カスパリアン(ロックバンド「キノー」のギター奏者)と付き合ってきたところに表れている。セルゲイの場合、関心を寄せる対象との関係のしかたはとても興味深いもので、アイロニーの比率がかなり高かった。これは挑発的行為(じらし)の要素を伴うゲームのようなものだった。セルゲイはけっこうな皮肉屋だったが、たちのいいジョークばかりとは限らなかった。子供が大事なオモチャでも壊してしまったりベッドの下に投げ捨てるみたいな残忍なものもあった。疲れている様子のときの彼がそれだった。 これはぼくの考えにすぎないが、一般常識的な意味においてクリョーヒンには友人がいなかった。彼の目は常に家族だけに向けられていた。ぼくは晩年の彼とはあまりひんぱんに付き合うことはなかったが、ぼくたちには共通の知人がいろいろいたこともあって、偶然会ったりするなかで感じたことを言えば、彼が熱を上げていた最後の対象は「ファシズム」だったとぼくは結論づけている。つまり彼の晩年の関心事はアレクサンドル・ドゥギンだった。ドゥギンは地勢学者とか保守的革命論者(conservative revolutionary)というより、むしろ新神話学(new myths)の詩人である、とぼくなら定義する。ドゥギンがクリョーヒンを魅きつけた理由としては、反ブルジョワ社会のイデオロギーということだけではなく、むしろ仰天ものの独創的な幻想がかなり大きかった。ドゥギンとの関係で、クリョーヒンのすることと言えば、憧れみたいなものばかりだった。クリョーヒンの人生の最後の年になった1996年の3月、ぼくが最後に会ったときの彼は、新しい友人を紹介し始めたので、ぼくも自己紹介を始めると、ドゥギンは「私たちはすでに知り合いですよ」と言う。ぼくはクリョーヒンにドゥギンを紹介してもらった覚えなんてなかったんだが。クリョーヒンの中で「保守的革命」によって生じた熱中というものは、ぼくからすれば、クロード・レヴィ=ストロースや、ミッシェル・フーコー、ブランコのギター音楽、あるいはジョン・ゾーンの音楽に対する興味と同じ性格のものに思われた。 ある意味で、クリョーヒンはロシア音楽界の方向付けを続けている。 クリョーヒンの死(1996年7月)から2ヵ月後、ニコライ・ドミートリエフの企画で「セルゲイ・クリョーヒン・メモリアル・フェスティヴァル」が始まった。これはモスクワの中央芸術家の家におけるニューミュージックのコンサート・シリーズで、約4ヵ月続いた。The House of Khanzhonkova (Center of Russian Cinema in Moscow) は、クリョーヒンが音楽を担当した映画を集めた映画祭「Passions According Sergey」を開催した。翌1997年の1月にはニューヨークでボリス・ライスキンの努力の成果として「Sergey Kuryokhin's Interdisciplinary Festival」が開催された。これは11日間にわたり、世界中から、のべ200人以上(ミュージシャン、詩人、アーチスト)が出演した大フェスティヴァルだった。このフェスティヴァルの重要な部分を担ったのは、フリージャズの「メッカ」として知られるニッティング・ファクトリーだった。このフェスティヴァルでもっとも印象的だったのは、ロシア、USA、またはロシアから離散したニュージャズのミュージシャンたちだけでなく、アカデミックな音楽界の演奏者も出演したことだ。あのニッティング・ファクトリーのステージから初めてショパンやチャイコフスキーの音楽が聴こえたんだぜ。これこそ文字通りセルゲイ風というものだ。その後も、ロンドンにおいて、クリョーヒンの名前を冠したニュージャズのちょっとしたフェスティヴァルがレオ・フェイギン(Leoレーベル社長)によって開催された。翌1998年の5月には、ニューヨークにおいて第2回「Interdisciplinary Festival of Sergey Kuryokhin's」が、デイヴィッド・グロスの努力で開催された。1998年10月にはついにペテルブルク青年の館において大フェスティヴァル開催へと至ったのだった。 なんと言ったらいいか、たぶん最も負の部分になるけれど、クリョーヒンの死は極めて不思議だった。彼は非常に健康な人間だったし、筋骨もたくましく、ポップ・メカニクスのリハーサルでは裸の上半身をさらけることを好んだものだった。彼の死因はきわめて稀な病気で、心臓の肉腫だった。病気は急速に進んだ。1995年11月時点の腫瘍検査では何の問題も認められなくて、健康体と診断されたが、翌年2月にはさしこみをきたしたのだった。 ......80年代半ばにセルゲイが考案したトリックを思い出す。グランド・ピアノで急速パッセージを弾き、鍵盤が足りなくなった。するとピアノの下に倒れ込んでしまうのだった(心臓発作を装ったのだ)。セルゲイが心臓病を患っているとレニングラード作曲家の家の管理者に思い込ませてくれと、彼はぼくとアフリカに頼んだのだ。コンサートの最中に救急車を呼ぶか、少なくともシャツのボタンをはずすとか、水を吹きかけるとか、なんてことになると素晴らしいんだけどな、というわけだった。で、ぼくたちは筋書き通り、この「水の絡んだ珍しい性的遊び」を演じた(この遊びの名前はジョン・ハッセルとカラヴァウチュクにちなんだものだとぼくは思っている)。しかし、これは、ヴェネディクト・エロフェエフやアンドレイ・ベリーをはじめとする諸々の例と同様、自分の死を作品の中で予言する結果となってしまった。 死の回路が作動したまま止まらない。 ニューヨークで最初にクリョーヒン・メモリアル・フェスティヴァルを企画したボリス・ライキンはフェスティヴァルからひと月後(1997年2月)に自殺した。1998年10月、クリョーヒンの娘リサが自殺した。リサは父と極めて親密だった。1999年7月9日クリョーヒンの命日に、ドラマーのアレクサンドル・コンドラシュキンが死んだ。彼はアクワリウムやポップ・メカニクスで共に演奏した人物だ(そしてクリョーヒン、グレベンシチコフ、ぼくとカルテットを組んでいたこともある)。他にも、ポップ・メカニクスに参加したミュージシャンの何人かが死んだけど、時期とか詳細を思い出すのはもうたくさんだな。 (2003年、和訳初出,Jazz Brat no.5)
by jazzbratblog
| 2011-11-23 19:40
| セルゲイ・レートフ
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